娘がおばあちゃんとの日々を綴りました。

娘にたくさんのこと、気が付かせてもらいました。

是非、読んでみてくださいね。

そして、感想など送っていただけると嬉しいです。

 

『ありがとう。ごめんね。』

私が願うのはただ一つ。
神様、お願いします。
ぼける前に、子供たち孫たちに迷惑をかける前に
死なせてください。

こんなお願いしてはいけなかったね。

85歳。
今日は孫〔さつき〕の結納の日。
綺麗に成長したさつきの姿を見て嬉しくなった。
でも、それと同時に急に怖くなったんだ。
どう言い表したらいいのか分からない不安に押しつぶされそうになった。
幸せそうな顔で出掛けようとしているさつきや娘〔まみ〕に向かって「置いていかないで。」って言ったよね。
こんなこと言ったことなかったからみんなを驚かせてしまったね。

ここからだね。どんどん色んなことが解らなくなっていったんだ。

それからは、どこに物を置いたか判らなくなったり、お鍋を何回も焦がしてしまったり少しずつ少しずつ忘れていったんだ。

悔しかったよ。辛かったよ。
毎日必ず自分で作っていた朝のお味噌汁も火をつけたまま何個お鍋を焦がしてしまったかわからないね。
心配したみんなが「もう、作らなくていいよ。」と言ってくれたけど本当は悔しかったんだ。なんでこんなことも出来ないんだ、忘れるんだ、って。自分が怖かった。どんどん頭が変になっていく。。。

誰か助けてよ。

《頭変になった。。。》
これは認知症になってからの私の口癖。
どんどん忘れていく。分からなくなっていく。でも、どうすることも出来ない。
だからとっても怖いんだ。
少しずつ少しずつ進んでいくから自分がおかしくなっていくのが分かる。でもどうしたらいいのか、どうしたら思い出せるのかが分からない。『変になりたくない。変になりたくない。』どんなに願ってもどんどん変になっていく。
怖いよ。

《今日は何日だい?》
認知症になるまでは一人でバスや地下鉄に乗ってプールに通ったり女学校のときのお友達と月一回温泉にも行ったりと自分で予定も覚えていたんだけどね、それがだんだん分からなくなってきちゃったんだ。今日が何日で明日が何日か、カレンダーにはたくさん数字がありすぎてこんがらがっちゃうんだよね。自分の予定くらいしっかり覚えていたいのに分からなくなることが不安でついついみんなに何回も同じこと聞いてしまうんだ。ごめんね。また教えてね。

 

《具合が悪い。》
これはほぼ毎朝私がおはようの代わりに言う言葉。
この年になると少しでも体調が良くないと本当にだるくて辛いんだ。そして何より不安になるんだ。このまま、動けなくなるんじゃないか、変な病気にかかったんじゃないか、小さい不安がどんどん大きくなっていっちゃうんだね。
でも、言葉に出して話を聞いてもらえると不思議と楽になるんだ。あなたは私の一番のお医者さんだね。

 

《指輪がなくなった。》
どこに物を置いたのかすぐに忘れてしまうんだ。誰かを疑うことなんてしたくないのにその時は興奮してしまっているんだね。大切なものが無くなってしまったと思って焦っちゃったんだ。ごめんね。一緒に探してね。

 

《お風呂嫌だよ。》
昔はお風呂大好きだったんだけどね。年をとるとなんだか動くのが億劫になっちゃってね。若いときには分からなかったけどお風呂って意外と体力使うんだ。でもね、最近は私がお風呂に入っている横で孫(あやめ)が懐かしい唄を歌ってくれるんだ。私もたまに一緒になって歌うんだ。あんまり歌いすぎるとのぼせちゃうよ。

 

《ご飯はまだかい?》
夜中にお腹がすいて目が覚めたら晩御飯食べてないような気がしちゃってね。嫌だね。ご飯を食べたことまで忘れちゃうなんて。でもね、あなたの料理がとっても美味しいから何度でも食べれちゃうんだ。いつも美味しい料理作ってくれてありがとう。また美味しい料理作ってね。

《もう、食べられない。》
あなたの料理はすごく美味しいけれど、昔みたいにたくさんは食べられないんだ。年をとると飲み込む力も衰えるんだね。一口一口飲み込むのにも一苦労さ。夏なんかは脱水症状が起きるといけないからたくさんお水を飲まないといけないのは分かっているんだけどね。一口飲むのも私には大仕事なんだ。水を飲むだけでこんなに大変だってこと知らなかったよ。

 

《私の家はどこ?お母さんはどこ?》
たまに、昔の楽しかったことを思い出すんだ。ちょっと思い出しすぎちゃって「今」が分からなくなることがあるんだ。ごめんね。聞かれたほうはなんて言ったらいいか困っちゃうよね。ビックリしちゃうよね。少しだけ私の楽しい昔話聞いてね。

 

《ほっといて。》
ごめんね。一人じゃ何も出来ないことが辛いんだ。悔しいんだ。どうにか一人でやろうと思っても結局出来なくてみんなに手間かけさせてしまう。情けないよ。ほっといてじゃなくて助けてねって言えればいいんだけど、つい意地を張ってしまったよ。ごめんね。色々手間かけさせるけど手伝ってね。

 

《ばかやろー。》
ごめんね。色んな苛立ちをどこにぶつけたらいいのか分からないんだ。ばかやろーはじぶんへのばかやろー。

 

《あんた誰だい?》
私の中ではまだまだ小さくてかわいいあなた。その頃の印象が強くて、大きく素敵に成長したあなたが一瞬分からなくなっちゃったよ。あの小さかったあなたがこんなに素敵になるなんて。

 

《ほら、そこに人がいるでしょ。》
これは私の認知症の症状の一つでもある幻覚。本当に見えるんです。聞こえるんです。怖いんです。みんなは何もないって言うけれどいるんだよ。ほら、そこに。たぶんみんなも一度は経験あると思うけど夜中に怖い夢を見て目が覚めたときってなんだか電気をつけていても誰かがいるようで怖くないかい?そんな感じ。

 

《寒い、寒い》
年をとってどんどん痩せていくとみんなが暑いと言っていてもなんだか寒くてね。孫が半袖の服を着て腕が出ているのを見ているだけで寒いや。孫は「私は脂肪を着ているから暑いのよ」なんて笑っているから「脂肪を分けてよ」って頼んでみたんだ。そしたら「あげれるものならあげたい」ってさ。面白い子だよ。笑ったら少しだけ暖かくなったよ。

 

《ほら、あれさ。ほら、なんだ。》
なんだか最近は思っている言葉がなかなか出てこないんだ。焦れば焦るほど言葉に詰まってしまうんだね。ほら、あれ、なんだったかな。そうだ、あの、ほら、落ち着いてゆっくり話せば大丈夫。悪いけど、ゆっくりのんびり話し聞いてね。

 

《お正月》
なんでかな。私、お正月が好きなのかもしれないね。例え、暑い夏の日でも紅葉が綺麗な秋でもたま~にお正月の気分になっちゃってみんなに挨拶に行かないといけないと思っちゃうんだ。お正月ってみんなが集まって楽しいからかな。お正月じゃなくてもたまにはみんなで集まってかるたでもしたいな。 

 

《今何時だ?》
お昼寝をして目が覚めたら、きっとグッスリ寝すぎたんだろうね。朝なのか夜なのか一体今は何時なのか分からなくなって飛び起きることがあるんだ。こんなことも分からなくなって私は頭がおかしくなったんじゃないかって不安になったんだ。でも孫もこの前お昼寝したら寝すぎて一瞬どこに自分がいるのか分からなくなったんだって。それを聞いて安心したよ。私だけじゃなかったんだね。

 

《ここはどこだ?》
デイサービスがお休みの日にはよく、孫〔あやめ〕と娘〔まみ〕と愛犬とドライブに行くんだ。私は昔からドライブが好きで窓から流れる色んな景色を見るのが最高の楽しみでね。でも、最近は流れる景色を見ていても自分がどこにいるのかとっても気になっちゃってね。運転しているあやめに何度も教えてもらうんだ。この前なんか少ししか進んでないのに私が聞いたからあやめが「さっきの場所から信号一つ分の場所だよ。」だって!あやめっていつも面白いこと言うんだ。同じことばかりの話しだけど私はたくさん話が出来て嬉しいんだ。

 

《もったいない。》
昔はね、鼻をかむ紙も十分に無かったんだ。だから、今でも物を大切にするんだよ。あなたは汚い!って言うけどまだちょっとしか汚れてないからもう一回使えるんだ。そんなこと言ってたらズボンのポケットがティッシュでパンパンになっちゃってた。さすがに、そろそろ捨てるかな。でも、あなたもこれだけは覚えておいてね。今は物に不自由する時代ではないけれど自由にしていいって言う時代な訳じゃないんだよ。紙一枚でも大切にしなさい。感謝して使いなさい。

 

《死にたい》
こんなこと絶対に言ってはいけない言葉だよね。分かっているんだ。本当はこんなこと言いたいんじゃないんだ。
一人じゃ何も出来なくなっていく事が悔しい。辛い。どんどんいろんな事が分からなくなっていく事が怖い。苛立ちがこんな言葉になって口から出ていく。本当は死ぬのが怖いんだ。死にたくないんだ。

こうやって見ると本当に私の取り扱いって大変ね。罪な女だわ。でもね、本当に幸せな女でもあるの。大切な家族と一緒にいられること。家族には大変な思いをさせてしまっているけれど、今家族と一緒に居られることが私を安心させてくれる。私の中には家族に申し訳ないという気持ちと感謝の気持ちその二つがあるの。何かをしてもらっても『手間かけさせて悪いな。』、『ありがとう。』いつも心の中で言っているんだよ。毎回毎回、口に出しては言わないけれど、いつも本当に感謝しているんだ。もしこれからもっと色んなことが分からなくなっていってもこれだけは忘れたくない。みんなへの感謝の気持ち。このお願いなら神様も聞いてくれるかな?

神様、お願いします。
どうか私の記憶から消さないでください。
「ありがとう。」と「ごめんね。」この言葉だけは。

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さて、ここからはあやめからみたばあちゃんのお話。

ばあちゃん、どうかな?ばあちゃんの気持ちはこんな感じかな?
今のあやめは、年をとってだんだんと身体が動かなくなってきたり色んなことを忘れていく恐怖は想像することしか出来ない。きっとあやめの想像なんてばあちゃんの気持ちの1パーセントも分かってないかもしれない。それでも、こうやって書くことでばあちゃんの気持ちに寄り添えているような気がして嬉しいんだ。
これが私がこれを書き始めた理由。

ある日、ちょっとだけばあちゃんと言い合いになったことがあったんです。その時に、ばあちゃんが言いました。

「口には出さないけど本当にあやめちゃんには感謝しているんだ。悪いと思っているんだ。」って。

私、この言葉聞いたとき本当に衝撃を受けました。まさか、ばあちゃんがこんなこと考えていたなんて。それから、私なりに色々考えました。もしも、ばあちゃんが認知症になった自分を見ていたらどんな風に思うんだろう。どんな風に考えるんだろう。って。

ばあちゃんはとにかく、「ぼけたくない、ぼけたくない。」が口癖の人でした。
若いときは学校の先生をやっていたりとても強くしっかりとした女性でした。そんなばあちゃんが認知症になり、色んなことを忘れていったり一人で色んな事が出来なくなっていくのを見るのは本当に辛かった。認められなかった。

美味しいきんぴらを作ってくれたばあちゃんはどこにいったの。
お願いだからしっかりしてよ。

ばあちゃんがお鍋を毎日焦がすようになっても責めることしか出来なかった。本当に辛かった。どんどん変わっていくばあちゃんを私は認めたくなかった。明日になればまた元に戻るんじゃないか。戻ってよ。でも、元に戻ることはなかったんだ。

何年だろう。5年、6年、もっとかかったかもしれない。やっと、自分の中で〔今〕のばあちゃんを認められるようになった。そうしたらとてもスッキリした。ばあちゃんと一緒にたくさん笑えるようになった。ばあちゃんとこれからたくさん笑って一緒にいたいと思った。少しでもばあちゃんが楽に生活出来るお手伝いが出来ればと思いホームヘルパーの資格をとった。

自分が認められるようになってからは少し楽になった。もちろん大変なこともたくさんあるけれど何よりばあちゃんと一緒に居られることが私は幸せだなと思うんだ。

周りの人たちがよく「偉いね。」って言ってくれるけど何かいつもそれを言われるたびに違和感を感じる。私はただばあちゃんと一緒に生活しているだけで何も偉いことなんてしてないんだ。みんなもそうでしょ?だって家族が風邪を引いたら看病するだろうし、怪我をすれば病院にも連れていくだろうし。それと同じ。ばあちゃんはあやめの大切な家族だから一緒に暮らしている。ただそれだけ。でもね、たまに「お孫さんにこんなに優しくしてもらっておばあちゃんは幸せね。」って言われるとちょっとだけ嬉しくなるの。ばあちゃんも幸せって思ってくれてたらいいなぁ。ってね。

さっき笑って一緒にいたいとか楽しく生活したいとか言ったけどもちろん私とばあちゃんも喧嘩や言い合いもする。そりゃ、激しいよ。でもこの言い合いや喧嘩があるから私はばあちゃんの気持ちを知ることが出来たしお互い言いたいことは溜め込まないでいられると思うんだ。もちろんあんまり激しくなりすぎる時は私が引かないとばあちゃん興奮しすぎちゃうから要注意!なんだけどね。

よく、介護は子育てに似ているとか年を取ると子供に戻るっていう人がいるけど、私は全然違うと思うんだ。年を取る〔認知症〕になると色んなことが分からなくなったりして子供っぽくはなるかもしれないけれどやっぱり子供ではない。その人が歩んできた人生がいっぱい詰まっている。そして一番の違いは子育てには希望があるけれど介護には希望がない。子育ては、私は残念ながらまだしたことがないけど本当に大変だと思う。でもその大変の向こう側にはいっぱいキラキラした未来がみえるよね。今、いろんな悩みがあったとしても、この子が大きくなったらって考えたらたくさんの希望があると思う。でも介護にはそんなに大きな未来や希望はなかなか見えないんだ。認知症が少しずつ進むことがあっても劇的に治ることはない。

だから介護は〔今!!〕が大切なんだ。

私は認知症になる前のばあちゃんをあまりハッキリと思い出せない。きんぴらをよく作ってくれたなとかお正月には必ず着物をきていたなとか断片的にしか思い出せない。でもきっとそれでいいんだと思う。認知症になる前のばあちゃんをハッキリ覚えていたらきっとなんでこんなことも出来なくなって!とかしっかりしてよ!っていう気持ちがずっとあってばあちゃんを認めることが出来なかったと思う。というより、もしかしたら認められたときから過去のばあちゃんを思い出せなくなったのかもしれない。

それでもやっぱり私も人間だから夜中に眠たいときに何度も起こされたりすると「いい加減寝てよ。」と少し声を荒げてしまうことだってある。うちの場合は母や父、弟もいるのでみんなで代わる代わるばちゃんの話を聞いたり出来る。誰かが限界が来ればほかの誰かがサッと来て助っ人に入ってくれる。そして、愛犬が癒してくれるとまた復活して優しい気持ちでばあちゃんと話が出来る。こうやってみんなでばあちゃんと生活しているんだ。 

さっきから何回も出てくる〔介護〕という言葉。なんだか、私はこの言葉があまり好きではありません。勝手なイメージだけど、介護している。というと、やってやってる。というような上から目線のような気がしてならないんですよね。

ホームヘルパーの勉強をしているときに出てきた言葉。
ホームヘルパーは「サービス利用者に学び、利用者との信頼関係をつくり出す」という心構えで、一方的に何かをしてあげたり指示をするのではなく、「人生の先輩から学ぶ」という姿勢と謙虚さを持ち続けることが大切です。これを聞いたとき私はたくさんのことをばあちゃんから教わっているんだなと改めて感謝しました。

学校では仕事としての〔介護〕をたくさん学びました。もちろん家庭でも役立つこともたくさんあったけれど、仕事としての〔介護〕と家族〔介護〕は全く違うものだということもすごく感じました。

よく、言われている家族介護は24時間365日休みなし!!ということ。本当にその通りだしましてや、うちのように家族が何人かいて代わる代わる助け合いながら生活出来るならまだしも一人で看ているかたは本当に大変なことだと思います。

だけど、家族介護している方はきっと、大変は大変だけどこれが私の生活であって家族と一緒に生活しているだけ。たまたま、家族が認知症になっただけ。そんな考えの人が多いのではないでしょうか??

この文章を書き始めたころからここまで半年もかかってしまいました。
この半年でいろいろな事がありました。
一番大きな出来事は、ばあちゃんが夜中にトイレから戻るときに転倒してしまい頭を縫う大怪我を負いそれからはばあちゃんの隣で一緒に寝るようになったこと。
着替えやトイレなどの日常生活が一人では難しくなってしまったこと。
少しずつ言葉も忘れていき会話がなりたたなくなってきてしまったこと。

昨日と比べたらほんの少しの変化だけど半年前と比べたら本当に大きな変化。
ばあちゃんの認知症は確実にゆっくりと進んでいる。

最近は一緒に遊びに行っても家につく頃にはどこに行ったのか何をしたのかも忘れてしまう。いいんだ。今!その時!にばあちゃんが笑ってくれたらそれでいいんだ。忘れたらまた楽しいことしようね。あと、何年、何ヶ月、何日、一緒に笑えるか分からないから、今!いっぱい笑おうね。

ばあちゃん、ありがとう。